230727_自分は大したことがないと受け入れることについて

障害について求めたい理解

自分の無限の可能性を信じていた。
信じていたというより、
無限の可能性がそこにないのなら、
生きていく意味を失いかねなかった。

だから、生きていくには、
無限に可能性がそこにあると信じる必要があった。

緘黙症・失感情症・離人症を抱え、
誰の視界にも写らない透明人間だった僕が、
そんな僕の人生が、
変わるのかもしれない、
変えられるのかもしれない、
そう信じ続けるには、
僕には無限の可能性があると信じ続ける必要があった。

それだけ僕の今は常に絶望的だった。

それが最近、僕は大したことがないかもしれない、
そう受け入れることができつつある。

僕は大したことがない人間である、
そう思えることは案外絶望的なことではない。

ネガティブな、消極的な言葉のようだけれど、
きっとそれは僕のこれからについて僕が、
ポジティブに、積極的に考えることができているから、
受け入れることができているのだと思う。

そして僕がそれを受け入れられているのは、
人が僕の発達障害を知り、僕の至らなさを知り、
それでもなお関わろうとしてくれる人達のおかげなのだと思う。

世間の発達障害の理解は進んでいるとは言えず、
自身の発達障害をカミングアウトをすることは未だリスクの方が大きいのだけれど、

信頼関係を築き、これからも付き合っていきたい人に自身の発達障害をカミングアウトをする。
そしてその上で僕を受け入れてもらう。

そのことは僕が生きていく上で必要なプロセスだったように思う。

今僕は友だちにはカミングアウトをしていて、
会社でも、発達障害です!とは言わずに、
生まれつき体のある成分が足らず眠気や考えの整理が難しくなることがあるので薬を飲んでいる、
と原因と症状のみを伝えるプチカミングアウトをして、
以前と変わらず働かせていただいている。
どころか会社では配慮をいただくこともある。

その状況が、
僕に無限の可能性を持つ必要はないと思わせてくれているのかもしれない。
何者かにならずともいいんだ、今を楽しみ、休める余裕が持てたらそれでいいや、
とそう思わせてくれているのだと思う。

だから、僕はやはり、
発達障害をオープンにして暮らせる社会であってほしいな、と心から思う。

ここまで苦心してようやくカミングアウトをするような社会ではなく、
努力範囲を超えて何かができない人がいて、
生きるために補助が必要な人がいるんだ、ってことを多くの人に知ってほしい。

そうして初めてカミングアウトができるようになるんだと思う。

配慮をもらうためではなく、
理解をしてもらうためにはカミングアウトは必要だったんだ。

そして、理解は生きる上では必要なことだったんだ。
あったらいいな、そんなものではなくって、
理解がなければ人は生きていくのが難しい。

29年間生きてきて、
僕は初めて僕のことを理解した上で受け入れてくれた人と出会えた。

もうすこし早く、そうなれたらよかったな、
そう思ってしまう自分もやはりいる。

これからは、僕らの次の世代の子ども達は、
学生の時から理解され受け入れられてもらえるといいな。

僕が過ごせなかった学生生活を、
過ごせるような社会であってほしいな。

そう通勤の電車で思った。
なんでだろうな、会社に行くのが怖くないや。

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