230728_障害を抱える僕が人を好きになるということ_その③

障害について求めたい理解

前の頁で、僕は発達障害という僕の至らなさについて友人や会社の人にオープンに話しはじめ、
そしてそれでもなお受け入れてもらえたことによって、
自信と安心感を得た経験について記録をした。

そしてそれから僕がまた人を好きになったことについて記録しておこうと思う。

何ももっていない僕とも、お付き合いをしてくれる人は、過去にはいた。
そして、決まって僕の方から離れてしまった。
理由は今ならわかっていて、僕は時間が経ち関係が深まるほど、自分が至らないことがバレてしまうことが怖かった。
だから自分の方から離れていってしまっていた。
優しい人を相手にひどいことをしてしまっていた。

その人の前で重ねてきたミスの一つ一つも、
きっと人から見たら些細なミスだったのかもしれない。
だけど僕から見たら、
29年間見続けてきた発達障害であるがゆえのミスで、
そのミスを晒す度に、いつか見放されるんじゃないか、と怖くなっていた。

ご飯屋を選べばその店は日曜休みで、
次に入った店ではその子が食べたい料理と違うものを誤って注文し、
そこから次の目的地に行こうとすれば距離が遠くて、
そんな日に限って雨は降り僕は傘がない。
その子の傘に入れてもらい地図を読むも間違えてしまい道に迷う。
そんなミスをその子は笑ってくれても僕は本気で落ち込み困らせてしまう。
こんな自分と時間を過ごさせては申し訳ないと予定より早めの時間に、解散しようと提案し、
え?一緒にいたくないの?と言わせてしまう。

本当に何をやっていたんだろうな。
振り返ればおかしなズレたことをしていたことは分かる。

今思えば、笑えばよかったんだろうな。
ミスをしてしまい、そのミスを自分から笑えばよかったんだろうな。
でもさ、どんどんとバレていく自分の至らなさが、
隠せない僕の足りなさが恥ずかしくて、
呆れられて離れられるのが怖かったんだよな。

段々と、会うことも電話をすることも怖くなっていった。

僕は黙っていてさえいたら、仕事もできそうな見た目をしてるんだ。
学生の時にバイト先の店長に言われた。
「うーん、見た目は仕事できる感じすごいするのにね!」って。
(学生の時はもうすこし呑気だったからこれを褒め言葉だと勘違いしていた。)

だから、時間が経ち、段々と、僕が何もできないことが、何も持っていないことがバレて、
近くにいてくれる人が僕から離れていってしまうんじゃないか、
とそれがただひたすらに怖かった。
というか、それは今でもきっと怖い。

そして、自分の抱える発達障害について受け入れた今、僕は生まれて初めての関係の築き方をした。

僕の抱える発達障害を、僕の抱える至らなさを、
予め知った上で僕とお喋りしてくれる、遊んでくれる友だちができた。
そして、僕が発達障害を抱えていることを知った上で僕と一緒にいてくれる人ができて、僕はその人のことを心底、いいな、と思えている。

不思議と、というか最早当たり前なのかもしれないけれど、
僕は彼らと関わる時に不安を感じることがない。
だって彼らは、僕の至らなさを知った上で時間を一緒に過ごしてくれている。
これからどんなに時間が経とうとも、バレてしまう、隠している至らなさがもう僕には他にない。
そうしたら、時間が経ち関係が深まることの怖さや不安はもうそこにはなかった。
だから、僕は彼らとのこれからの時間がただ楽しみでしょうがない。

僕が人と関係を築くことのできなかった大きな理由の一つがこれをしなかったからなのかもしれない。

至らなさを初めからさらす、
それでも付き合ってくれる人達と付き合う。

これをしなかったからかもしれないけれど、
じゃあもう一度過去に戻りそれができるかといえばできないよな。
だって、できない自分を認めてもらえた経験なんて、
僕はしたことがなかったんだから。

一度も認められたことがない人間が、
これからもしかしたら認めてくれる人がいるかもしれない、
なんて楽天的には思えないよな。
長年かけて悲観的に物事みる視点を身につけて、
つらい現実に直面した時に落ち込まないようにハードルを下げて生きつづけて、
その低いハードルをさらに下回る現実に毎日直面してきてるんだから。

だから、僕が僕のあるがままを認めるには、
人にあるがままを受け入れてもらう経験が、
まずは必要だったのだと思う。
これ以上ないくらいに、僕は何も持ってない人間であることを予めにオープンにして、
障害も抱えていて、仕事もできなくて、お金もなくて、遊んできた経験もなくて、
全てをオープンにした上で、僕が無であることを知った上で受け入れてくれる、
強烈な経験が、僕には必要だったのだと思う。

僕のあるがままは、
僕がひた隠しにしてきた至らなさと弱さだったのだと思う。

その至らなさと弱さをひた隠しにしてきたからこそ、
僕は僕を誰かが受け入れてくれた経験を積めなかったのだろう。
人を好きになることも、信用することもできなかったのだろう。

大きなことに気がついた気がする。
そして今、僕は僕の至らなさを受け入れることができている。

こうして、
僕が僕のあるがままを認めることができた時に、
気がつけば「完璧にならないと人を好きになってはいけない」と定めた自分のルールも自然と破綻をしていた。
破綻をしているルールを守るほどには僕も生真面目ではないので、
そうして僕はまた、人を好きになる心や考え方の準備ができたのだと思う。

そして、最近できた、発達障害を抱え、僕と近い困りを抱える友人達には偶然、みんな揃ってパートナーの方がいた。

彼らの生活は、何よりも楽しそうに見えた。
僕の大事にしている理屈がどうでもいいやと思えるくらいに楽しそうに見えた。

その友人達のその姿を見て思った。
僕はまだ、
完璧じゃなくても、完全じゃなくても、
それでも人と、
一緒に時間を過ごしてもいいんじゃないか、って。
生活を共にしていいんじゃないか、って。

僕の至らなさを予め知っていて、
その上で受け入れてくれるのであるならば、
僕はもう、これからは、
自分から離れたりなんかしなくっていいんじゃないか。

だから、僕はまた、いいな、と思える人と出会えた時に、恐れずに行くことができた。
(実際にはおどおどと声をかけたけど)

その子とのお出かけでは、
喫茶店で涼しくプリンを食べるつもりが真夏の暑い日にテラス席を用意してつらい思いをさせてしまったけど、
このプリンを食べたら冷房の効いた向かいのデパートに避難しよう!と笑いながら言ってくれて楽しかった。
デパートで涼んだあと、焼き鳥屋に行く前に別の喫茶店で涼もうと探し歩きどこも混雑で入れなかったけど、
家具の量販店なら椅子が沢山あるかも!丁度椅子も検討したかったところだから中で涼もう、と急遽ウィンドウショッピングがはじまり楽しかった。
量販店の3階から、下階に降りようとしたら上りエスカレーターの方に向かってしまい
一階の出口に行こうとしたら一階の非常口に辿り着いてしまい館内で道に迷うというトリッキーなミスも披露してしまったけれど、
振り返ったら笑ってくれて、僕も楽しかった。

僕はきっと何も変わってない。
ミスばかりだし、何一つうまくこなせない。
だけど今は、僕が至らないことを知っている上で
近くにいてくれる人達がいる。

だから僕は、そのままの自分もわるくはないや、とそう思うことができている。
僕は人に本当に恵まれている。

人が自信を得る過程で必要なのは、
特別な才能を活かし人に必要とされることではなく、
どれだけ自分に至らなさがあったとしても、
受け入れてくれた人達がいたかどうか、その経験なんだと思う。

緘黙症で、失感情症で、離人症だった僕は、
人に存在を気づかれず、嫌われて、時にいじめられてきた僕は、
特別な能力や技術を得ることでその状況をひっくり返したいと願い続けてきた。
そしてそんなことはできなかったし、きっとこれからもできない。
そもそもその必要性すら、今は感じない。

今は、生きることがすこし楽しみだ。
そんな風に思えているのは、生まれて初めてだ。

僕は、本当に人に恵まれている。

形式的なものなんかじゃなかって、
自然に浮かんでくる、有り難いという感覚が。

胸部真ん中のやや下辺りににややの重さを感じ、
地に足がつく感覚を覚え、それらは人が僕にくれたものだと感じ、
有り難いという感覚を覚える。

ありがとう、は言葉でメッセージだけど、
有り難い、は感情でも思考でもなく、感覚に近いな。

うん、心から有り難い。

発達障害を抱える僕が、
なぜ人を好きになれなかったのか、
なぜ至らない自分を受容することができたのか、
なぜ人を好きになることができるようになったのか、
その記録がひとまずここで、できたように思う。

また何かを忘れかけたら、読み返し思い出そうと思う。
僕はどんなに大事なことでも忘れてしまうから、
大事なものはここに記録しておく。

本当に人に恵まれているな、僕は。

コツコツと生活を改善させたい。
そのことだって、まだ諦めない。

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