230913_発達障害当事者でない人が言う「彼はASD(もしくはADHD)だ」という言葉への違和感

かめたのコツコツ発達日記

発達障害当事者でない人が言う「彼はASD(もしくはADHD)だ」
という言葉に違和感を覚えることがある。

もちろん、その言葉を使う人の誰もがそんな意味合いでつかってるとは思わないのだけれど、
「彼はASD(もしくはADHD)だ」という時に、
「彼は私たち(人)とは違う発達障害者(という生き物)です。」
と、そのような意味合いで使われている人がいるように感じることがあり、
ひどく傷ついたりしている。
彼は私たちとは違うから、理解できない存在である、
そのような意味合いで使われているように感じ、傷つくことがある。

これは僕自身の自己認識の仕方についてだけれど、
僕がASD(もしくはADHD)である、
というのではなく、
僕はASD(もしくはADHD)を抱えている、
と、そのように自分のことを考えている。

発達障害者であるという以前に、
発達障害を抱えている、みんなと同じ人であるので。
あえて言うことではないのかもしれないのだけれど、
でもあえて言いたくなったり、意図を確認したくなってしまう、
そんな場合があったりする。

ASDやADHDなど、
発達障害はその人が持つ障害のはずなのに、
その人自身が障害そのものとみなされるのは違和感がある、という感じ。

骨折した人を見ても、あの人は骨折をしている、となるはずで、あの人は骨折者だとはみなされない。
けれども、ASD(もしくはADHD)を抱えている場合は、
「彼はASD(もしくはADHD)だ」という文章が用いられる、ことに違和感を覚える。

ASDは僕の一部に過ぎなくて、
他の障害についての話をする時には使われない言葉の使われ方を、
発達障害に関しては、よくされているように感じる。

そういう言葉を、私たちとは違う生き物だ、という意図で使う人を目にする時、
発達障害についての理解はなかなか得られないんだろうなー、とふと悲しくなる。

もちろん中には、「彼はASD(もしくはADHDの特性のある人)」の様に()内を略して用いる、
あくまで日本語の文章を省略する癖でしかない場合が多いし、
僕もそのような省略をすることがないわけではない。

ただ、人として認識していないような、悲しい使われ方をしている場面を目にすることがあり、
正しい言葉へのつよいこだわり、で言いたくなったわけでもなくて、
僕はそんな場面で、自分に対しての言葉でなかったとしても、とても傷つく。そんなことが、しばしばある。
ただそれだけのことで。

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