230728_障害を抱える僕が人を好きになるということ_その①

障害について求めたい理解

「発達障害」を抱える僕にとって、
恋愛とはしてはいけないものだった。

緘黙症を抱え、楽しいお喋りもできず、
あらゆることに不器用で、お金も稼げていない、
そんな僕とのお付き合いを考えてくれる人も過去にいてくれはした。

僕はただひたすらに真面目だったから、
相手の話を聞くことだけはしっかりやろう、
そう努めていたから、誠実な人だとは思ってくれたのかもしれない。

自信のない僕はどうしても受け身になるし、
そんな僕に関わろうとしてくれるなんて、
そんなありがたいことなんてそうないことなのに、
僕は相手の時間をこんな僕が奪うことの申し訳なさに耐えられず、
いつも自分から身を引いてしまってきた。

それは結果的に相手に失礼なことだ、
そうは分かっているけれど耐えきれずに離れてきた。

なぜ僕は
こんなに喋ることができないのか。
こんなにやりたいことの主張ができないのか。
こんなに仕事ができず稼げていないのか。

そうして悩み、僕はやがて自分が発達障害(ADHD+ASD)を抱えていることを29歳になって知り、そして生活の改善に努めようと意識しはじめる。
自分1人で生きるのならば、変わりたい、そうつよく思うことはなかったのだと思う。
自分1人で生きる、その決意が揺らぎ1人で生き抜くことを諦めた時に、僕は変わろうと、そう思えた。

もう29歳になる僕と会ってくれたその人は、
僕より遥かに稼ぎ、休みが多く、
毎月旅行に行き、毎日友だちとご飯に行き、会社の部活にも参加するような、
恐らく普通よりも遥かにアクティブで余裕のある人だった。
そんな人がどうして僕と会ってくれていたのか、
それは未だに分からない。
分からないけれど、自分が何も持っていない人間である、それだけはハッキリと、ずうっと分かっていた。

会う度に、時間を過ごす度に、
自分の足らなさと至らなさを知り、
苦しい時間を過ごしていた。
言うまでもないことだけれど、相手の方は何一つわるくない。
僕が勝手に自信のなさから自分を否定し続けていただけ。
相手は目の前で自己否定をし続ける僕を前にしても、離れようとはしないでいてくれた。

メンヘラなんだ僕は、と伝えたら、メンヘラなのは知ってるよ?と返ってきた。
うまく話せないんだ僕は、と伝えたら、私が話して私が楽しければ、気にしなくていいんじゃない?と返ってきた。

そこまでのことを言わせてしまった。
そこまでのことを言わせてしまったのに、
僕は自分から連絡を返すのをやめて離れてしまった。
本当に失礼なことをしてしまったと思っている。
その経験を経て、僕は人を好きになるのをやめよう、とそう決めた。

僕はASDを抱えているからか、
自分で決めたことはその感情すらも持たないようにすることができてしまうことがある。
高校の時に、大学受験に集中するため、
自分に今後一切の娯楽を禁じるというルールを設けてみたことがある。
漫画やゲームや娯楽に該当する全てを1日で全て捨てた。
すると、想像以上に忠実に守れてしまい、
29歳になる今までろくに遊べなかった経緯すらある。
(遊び楽しむ感覚はこれから取り戻したい大きなことの一つでもある。)

そんな僕だから、好きになるのをやめる、
とそう決めたら想像以上に徹することができた。
徹することができてしまった。

女の子慣れしていない僕は、
女の子と話す時は必ずどこか緊張を覚えていたのに、
好きになるのをやめると決めてからは緊張せずに話せるようになった。
あまりに緊張をしなくなり、
そこまで徹することのできる自分に寂しさすら覚えた。

自分自身に自信がない人間は、
仕事をなす技術がない人間は、
お金を稼ぐ能力のない人間は、
遊ぶ余裕と経験のない人間は、
そんな僕には人を好きになる権利がない。

ましてや僕は発達障害を抱えている。
人一倍、当たり前のレベルに達することすらハードルが高く、
一人前のことすらこなせない僕が、
誰かとのこれからを考える権利なんてない、
そう考えていた。

だから僕は、
きっと誰が相手でも離れてしまっていたんだろう、とそう思う。

だからまずは自信をつけよう。
そう決めて仕事に打ち込み、
そしてADHDの注意欠陥から多くのミスを重ね、
ASDも併発している僕は相変わらず会社で打ち解けることもできず、
また自信を喪失していった。
何度も何度も消えてしまいたくなって、
部屋の隅にうずくまってひとりで泣いた。

つらかったな、あの日々は。
また同じ日々を今の僕が過ごして、
生き延びられる自信は僕にはない。

その経験を経て、
なるほど、自分が発達障害を抱えていると認め受け入れただけじゃ何も変わらないや。
人や薬の補助もなく1人で取り組み続けることには限界があるや、前に進めないや。
そう思い、発達外来に行くことに決めた。
あなたは発達障害です、とその日に僕は診断を受けた。

診断を受けたその場で僕は泣いた。
ありがとうございます、と先生に伝えた。

小5で鬱になり、そこから5つほどの精神科に通院し、いくつもの向精神薬を飲んでも効果が全くなく、
精神科に入院もして、
何度も僕は発達障害だと思うと自分で言っても認めてもらえず、
精神科の入院先に紹介状をもらい発達障害を専門にする大学病院になんとか辿りついたのに、
目を見たら分かる、あなたは発達障害じゃないよ、と診察時間は5分ももらえなかった。

名医のフリなんてするなよな。
生育歴も聞かずに日常の困りを本人から聞かずに、目を見て判断なんかできるはずがないだろ、
当事者の方から知識をもらった今の僕ならそう思うことができるけど、
「名医」に「発達障害なんかじゃない」と診断され、
そしてその診断を聞き喜ぶ両親の顔を見て、
僕は自分は発達障害であると認めるのを諦めた。
今思えば、あの出来事が僕の発達障害の診断を遅らせたんだ。

それから、
「発達障害なんかじゃない」僕は、
ただの、
「短期記憶の保たない、集中のできない、作業の整理ができない、コミュニケーションのとれない」僕になって、
発達障害だと診断されないことによって、
僕は僕をより追い詰めた。
なんで僕はこんなにできないんだ、駄目なんだ、
休んでる暇なんてない、遊んでる余裕なんてない、
もっと努力しなきゃ、変わらなきゃ、変わらなきゃって自己否定をし続けて生きてきた。

僕は消えてしまいたくなるくらいつらくって、
助けを求めて催眠療法にも自己啓発セミナーにもすがり騙されお金を取られた。
カウンセリングに今も通い続けている僕は今だって貯金はほぼない。

僕にとってはどこにも希望を見出せない絶望的な状況で、
そんな状況下で僕の主治医は僕を発達障害を抱え困りを抱えている人だと認めてくれた。

誰も助けようとしてくれなかった僕に、
主治医の先生は手を差し伸べてくれたように見えた。
本当に心から有り難いと思った。
心から有り難いと思ったから、
涙が出てきて、ありがとうございます、という声が出た。

もし僕が29歳のあの時に、あの子に会っていなければ、
僕は自分が同世代の人と比べて持っていないもの、足りていないものがあると気づけはしなかったと思う。

気づき、自分の発達障害を受け入れ、
それでも、
つらい経験を重ねてきた精神科には行く気がせず、
精神科で出される薬を飲むのは良くないことだという考えを刷り込まれてきた僕は、
発達外来に行く意味を感じずに独力でサプリメントとセルフ療育だけでどうにかしようと努めた。
そしてそれにも限界を感じ、発達外来に行き服薬をはじめ、僕の人生は遅ればせながらはじまりはじめた。

そうやって振り返るとさ、
僕がつよく変わりたい、と思ったのは、
人を好きになったことがきっかけなのかもしれない。
人を好きでい続けられなかったことがきっかけなのかもしれない。

迷惑をかけイヤな思いばかりをさせてしまった人に、
感謝の念を抱いている僕はなんだかエゴの塊のようだな。
でも、心からの感謝の念をどうしても抱いてしまうんだ。

そして最近、
コンサータやストラテラ、エビリファイを服薬し、
薬の量の調整を終えADHDの脳内多動が落ち着き、
仕事はすこしだけできるようになってきても、
それでもやはり会社の人と打ち解けられない不完全な自分は、やはりまだここにいる

不完全な自分はそのままなのだけれど、
不完全であることはそのままに、僕は僕を受け入れることができるようになってきている。
それについては次の頁にメモしておこうと思う。

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